言葉のむなしさ
「熊本を忘れてはならない」と書いている人がいた。もちろんその主張は何も間違っていないが、これほど言葉のむなしさを感じることはない。
残酷な悲劇など日頃から無数にあるわけで、12日にはフロリダで50人が殺されたが、日本では毎日100人近くが自殺していることが統計上言われている。東日本大震災で日本人の価値観は転機を迎えたなどいう人もいるが、明治維新や戦災は忘れてしまったのだろうか。
福知山線事故で負傷し自殺した幼馴染は、生前やはり「事故を忘れるな」と何度も強調していた。しかし、「熊本を忘れるな」と書いた人から福知山線事故への言及は一度も聞いたことがない。同じ地域社会の中で起こった惨事であり、熊本よりよほど身近なことにも関わらず、すっかり忘れてしまったらしい。
犠牲者が4千人とも4万人とも言われるキリシタン弾圧は?124人が亡くなった弥彦神社事故は?死者22万人のスマトラ沖地震は?ルワンダ虐殺は?現在も行方不明者が見つかっていない御嶽山の噴火は?昔のことだからどうでもよい?外国のことだからどうでもよい?神社のことだからどうでもよい?
「忘れません」と力強く宣言することが今、現実に困っている被災者の方々を励ますことは確かにあるだろう。ただそれにふさわしい場面だろうか。どんな目的で、誰に対して、どの立場に立って文章を書いているのかよく分からない。
注目を集めようとして「流行」をネタにして自己陶酔しているが、歴史を知らず全体を見渡すことができていない、というのは悪意に満ち過ぎだろうか。
精神力が弱い私は、恣意的に選択された事象だけを強調して他のことを切り捨てる文章を読むたびに吐き気をもよおしてしまうのである。
今日も暴力には負けません。