私設現代宗教研究所ブログ

日本の現代宗教に関する情報を発信していきたいと思います。不定期更新

「暴言」会社に要注意

注これはパロディです)

「暴言」会社に要注意
2016年9月1日付虱鈴

映画「寅さん」のセリフではないが、「それを言っちゃあ、おしまいよ」。職場で同時多発的に飛び交う過激発言や暴言を聞く度につくづく思う◆暴言の場面は様々。特オチ頻発や部数減少の反映、暴言はそのはけ口にもなっているのだろう。全国紙に長年勤務し、京都総局長まで勤めた自称ジャーナリストは「私が日本にパワハラという言葉を広めたんだ。お前は脳みそが腐っているから分からないだろうが、何がパワハラで、何がそうでないかは私が一番よく知っている」「お前を人権侵害で告訴する」「ネットの人間はみんなウジ虫みたいなヤツラだ」「殺してやる」など枚挙に遑がない◆宗教界も暴言の横行では負けてはいない。××宗××派の幹部は「仕事は修行だから休憩は必要なく残業代も支給しない」。修行僧を殴って鼓膜が破れる重傷を負わせた××宗の僧侶は「無礼な態度に腹が立った」。まるでブラック企業の経営者のセリフだ◆会議などでは強く、勇ましい物言いにひとり悦に浸っている。強い指導者を待望する空気もある。しかし、記者や僧侶の発言は居酒屋談義とは違う◆問題は暴言を吐く人の標的に対する「上から目線」、抜きがたい差別意識だ。多くは異質排除の論理が内包されている。私たちは言葉の単純明快さに惑わされ、うっかり聞き流しがちだが、新聞を読むように笑って済ますわけにはいかない。(比叡信之)

退位特例法成立、宗教界への影響

天皇陛下の退位特例法が成立した。これに伴い神社界は明治以来の祭祀制度の大改革に迫られる。なぜなら、現代の神社祭祀は、宮中祭祀を軸に組み立てられ、宮中祭祀天皇の祖先祭祀が過半を占めているからだ。


これまでは前天皇=故人ということを前提として制度が組み立てられてきた。上皇という存在は全く想定外だ。天皇の命日の祭祀である先帝祭を重視し、それ以前の三代の天皇の祭祀(先帝以前三代の例祭)も重要視された。これからは次の天皇昭和天皇の祭祀を行うことになると思われるが、どういう呼称となるのか。どのような理念が提示されるのか。


これらの改革は、宮中祭祀を担当する掌典職が進めていると推測される。表向き政府と無関係の天皇家の私的雇用人である。掌典職は神社界と密接な人脈を持つが、決して一枚岩ではない。


もっとはっきりというと、掌典職の立場と、神社界の立場は異なっている。

戦前なら神社局なり神祇院なりが国の機関という立場で事を進めることができた。しかしそのような制度は今はない。神社界がこの改革にどの程度関わることができているのか。おそらく困難な状況に置かれているのではないか。


天皇退位をめぐっての神社界の動揺は既に明確に現れている。


仏教界でも皇室の祖先祭祀に関わり続けている寺院は珍しくないが、個々の寺院が必要に応じて対応するだけに留まるだろう。

猊下と台下

高僧の敬称には「猊下」や「台下」を使うが、どういう使い分けをされているのだろうか。私はてっきり「猊下」を上位として、「台下」を次位とすると思っていたのだが、そうとも限らないらしい。


例えば浄土宗の場合、宗派のトップ浄土門主を務める総本山知恩院の住職(門跡)には「猊下」を使い、他の大本山金戒光明寺善光寺大本願など)の住職(法主)には「台下」を使う。だから、「猊下」と「台下」を、「陛下」と「殿下」と似たような関係と思っていた。


しかし、浄土真宗の場合、浄土真宗本願寺派では門主を「猊下」とし、真宗大谷派では門首を「台下」とする。もし両者に序列の上下があるなら、大谷派は納得いかないだろう。大谷派系の諸宗派もトップの敬称を「台下」とする。(現在ではあまり使わないが、全く使わないわけではない)


さらに各国元首の敬称を記した外務省資料によるとバチカン市国(法王聖座)について法王(教皇)の敬称を「台下」とし、枢機卿が就く国務長官(首相に当たる)の敬称を「猊下」とする。浄土宗の例とは逆転しているように思える。


日本の仏教に戻って他の宗派をみると、一つの宗派内に「猊下」の敬称を持つ職が複数ある例が少なくない。管長だけに限らないのだ。天台宗では「天台座主」以外にも、門跡寺(妙法院門跡、輪王寺門跡など)やそれに継ぐ寺院(善光寺大勧進など)でも「猊下」を使用する。日蓮宗ではなんと約50寺ある総本山・大本山・本山の全てで使う。また真言宗各派の総大本山でも「猊下」とお呼びする。臨済宗曹洞宗大本山も同様だ。これらの宗派では敬称を「台下」とする職はないのかもしれない。


すると「台下」を使う浄土宗や真宗大谷派の例が各宗派の中でむしろ例外的にも思える。「猊下」と「台下」に序列の上下がないとしても、なぜその敬称が使われたのだろうか。なぜこのような用法が生まれたのだろうか。先に書いたバチカンの例もなぜこの訳語が当てはめられたのだろうか。


調べる力も時間もないが、何かのことで古い資料を読んだ時にヒントが見つかると嬉しい。


なおローマ教皇(法王)に関連して言えば、日本のカトリック中央協議会では、外務省が使用する「台下」ではなく、「聖下」という独自の言葉を創出して使用している。字義から推測するに、「猊下」が高僧がすわる場所のことを猊座と呼んだことに由来するのに擬えて教皇の座である聖座の意を込めたようだ。

平成29年(2017):別表神社・旧官社などの遷宮(修復)や大祭

謹賀新年

別表神社・旧官社などの遷宮(修復)や大祭
(予定は変更されることがあります)

一番注目すべきなのは白山開山1300年大祭。複数の社寺が協力して大規模に行われるようだ。また飛騨一宮水無神社の式年大祭が57年ぶりに行われる。これも大規模な行事で飛騨地方の各神社と共に行う。氷川神社では「明治天皇御親祭150年祭」が行われるが、数年間続く、明治維新関連の行事の先駆けとなる。式年遷宮式年祭としては貫前神社の「式年遷宮祭」、鳥海山大物忌神社の「式年造営」、武蔵御嶽神社「酉年式年大祭」がある。神社検定は6/18。

 

政教分離

全くトンチンカンな記事です。書いた記者と載せたデスクは処分を避けられないでしょう。

信者数をどう数えるかを文化庁が決めることはできません。文化庁には宗教法人を審査したり、監督したりする権限は与えられていません。日本には政教分離という制度があります。マスコミの観念は70年前の「国家神道」時代で止まっているようです。

誰が教師(宗教者)で、誰が信者か、客観的に判断することは不可能です。例えば熱心な仏教信者が僧籍を取るのは一般的なことです。マスコミは無知過ぎる。


『宗教年鑑』掲載の信者数が情報としてあてにならないのは、宗教学の初歩の初歩です。常識です。

宗教年鑑の信者数の信頼性は? 真宗大谷派の信者数 320万人から792万人に 算出方法変更で 仏教系教団信者数6位から2位に上昇

http://www.sankei.com/smp/west/news/161225/wst1612250018-s1.html

統一された信者数の算出手法のない政府統計の不備と、宗教法人の不明確な信者数計算の実態が浮き彫りになった。」


親鸞聖人直筆の『尊号真像銘文』(国重文)が行方不明

親鸞聖人直筆の『尊号真像銘文』(国重文)が行方不明

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日本文化として仏教真宗浄土真宗)に関心がある一般の人も少なくないと思う。今年は、まもなく門主交代に伴う浄土真宗本願寺派本山本願寺西本願寺)の伝灯奉告法要があり、既に3月には親鸞聖人の直筆文書を多数所蔵する三重県津市の真宗高田派本山専修寺でも法主の交代に伴う伝灯奉告法会が行われた。真宗にとっては祝うべき慶事が続いている年と言える。

しかし、真宗僧侶や門徒にとって見逃すことのできない事態が起きている。真宗浄土真宗)宗祖であり、日本を代表する思想家でもある親鸞聖人の直筆の国重文『尊号真像銘文』(略本)が所在不明になっているのだ。今年5月13日に文化庁が発表した文書「国指定文化財(美術工芸品)の所在確認の現況について」に明記されている。文化庁国指定文化財等データベースによると、所有者は福井県の法雲寺。国税庁法人番号公表サイトによると、同県には法雲寺という名の寺院は4寺あることが分かるが、福井県庁が運営するウェブサイト「福井の文化財」によると、福井市の法雲寺であることが分かる。法人番号公表サイトによると、福井市に同名の寺院は一つしかなく、法人番号3210005001309、福井県福井市大味町39号9番地の法雲寺だと特定できる。同寺は、ウィキペディア真宗大谷派と書かれているが、福井市あわら市が運営するウェブサイトにも「法雲寺は真宗大谷派の寺院」「今は真宗大谷派の法雲寺」とあり、真宗大谷派の寺院と分かる。

法雲寺は、「高田山」という山号から分かる通り、上記の高田山専修寺と非常に関係の深い寺院である。中世、専修寺住職の継承争いがあり、負けた皇族僧侶が立てた寺が福井法雲寺の前身。『尊号真像銘文』(国重文)は、この専修寺から持ち出されたものであることが前述の「福井の文化財」の説明からも判断できる。『尊号真像銘文』は、真宗として、本尊として掲げる名号や画像とそれに書かれた銘文について解説した教典という。広本と略本の2種類があるが、広本は浄土真宗本願寺派『浄土真宗聖典』にも収録されているなど、宗派を超えて重視されていることが分かる。

本来は報道機関がニュースにするような事件である。某掲示板の書き込みには地元紙が報道した痕跡が残っている。しかし、宗教ジャーナリズムの世界では寡聞にしてこの件の記事を知らない。このぐらいの検索は、記者でも研究者でもなくても、検索エンジンにキーワードを入力することができれば、誰でも調べることができる。何も特殊な調査法は使っていない。それとも、官庁のウェブサイトにアクセスして報道発表のページに掲載されている公文書を見つけるというのは新聞記者にとって、特殊な取材方法なのだろうか。

例えば、私が真宗の僧侶であり、新聞記者をしていて、法雲寺の宗派の担当であったとすれば、絶対に無視することできない。人生においてもっとも大事な自分の信仰に関することである。解決や真相に至らなくても、可能な範囲で明らかにしたい、と思うのが自然な宗教感情ではないだろうか。数十年前の事件で幹部の間では周知のことであっても、全国の真宗の僧侶・門徒が共に考えるべき問題であり、一部の僧侶の間だけで秘密にしておくことではないと思うだろう。

確かに個人で組織の中の事情に迫るのは限界がある。だから調べる側も組織を作る。それが新聞社ではないのだろうか。それが報道の役割ではないのだろうか。記者の仕事は、広報担当者と漫才することではない。試しに本山にも関わるベテランの真宗の住職に聞いてみたが、この所在不明事件は知らなかった。少なくとも一般に周知されている事件とはいえない。文化財の所在不明が大きく注目されているのにも関わらず、現状を調べず、あえてニュースにしていないのであれば「隠蔽した」と言われても仕方がない。

宗祖親筆の文書とすれば、真宗大谷派にかぎらず、真宗佛光寺派も含め、全ての真宗の僧侶や門徒が命をかけて守らないといけないものではないのか。しかも国指定の重要文化財である。真宗だけの問題ではない。国民の税金によって制度的に保護されてきた日本国民の宝だ。詳しいことは分からないが、万が一、僧侶や報道がこの事件を放置、ましてや隠蔽するようなことをしているのであれば、「お坊さん便」問題だけではなく、ますます仏教界やメディアへの信頼は崩れていくだろう。

こんなことを書くのがこのブログの目的ではない。

(画像出典「福井の文化財」より)